昭和45年5月17日 朝の御理解
御理解第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということが分かるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
「真実の」っと、ね、「真実、ほんとうの信者じゃ」と。
これは、信心をすれば、信心をしておればね、神様の(のどの音)、う~、何と申しますか?、え~、おかげを頂きたいと、願う、その願うところから、う~、直接、えぇ、願いのところに、お働きを頂く事もありますけれども、えぇ、全然私共の気がつかない、全然見当もつかないようなところから、お働きを下さる、そういう場合が実は多いのです。
ですから、あぁ、たいていお礼を申し上げよらんと、お礼が足りない事になりますが、まあ、一つ本気で、信心を分からしてもろうて、ね、本当におかげじゃなと、もう全ての事の中におかげを実感さしてもらえれる、おぉ信心を頂きたいと、ね。
昨日、善導寺の原さんのところのお孫さん、えぇ、二番目の(みきおさん?)、生まれてから此の方もうず~っと色々その、おぉ容共したり、えぇ最近はこう、カサが出けたり、えぇもうとにかく、もう本当にこれが男ならば、どのくらい、ねぇ、まあ口上を言う事じゃろうか、と言うて、おられましたが、おかげを頂いてそれがもう(ひとひとぞく?)おかげを頂いて、もう信心がない者なら、そりゃぁカサが出きよったんじゃ、病院に連れていって、そして、そのカサがまあ良くなるように、手当てを受けると、これなんかは真じゃない、私そのお届けをお取り次ぎをさしてもらう時に、本当にですね、もう神様の、もう本当におかげを下さろうとする働きというものが、まあ言うならそうした困ったこと、または難儀な事と思われることの中に始まっておるという例をね、えぇもう、椛目の、二十年も前の時分におかげを受けた人達の話しをさして頂いた事でしたが、んん、久富先生の所の、今高校に行っとります、久明くんですかね、それから久富さんのいとこにあたります方、あの、小坪さんっちいう、そこんところの大っ、大作くんっちいう、というのがおりました、もう、吉城から、あ~、国武藤江さんっちいう、内の若先生がやっぱり、友達でしたから、もう、それこそやるカサハチですよね、カサハチっち言うのはあんなのを
言うとでしょう、もうこの国武さんな、所なんかはもう、身体全身でした、もうどこの薬が効くと言ゃぁこの薬を買い求める、医者が良いと言ゃぁ医者、温泉がええと言ゃぁもうあらゆるそういう、カサに効く温泉にも連れて回ったけれども、もう体中から、脳が出て、膿汁が出るというような、もう頭にはそのカサブタが出けてもうそれはもう、もう見るも不残な、格好の、もうその子供を連れて参ってみえますと、そこん所の、立った時にはもう、こう、カサの粒のごたっとがい~っぱい落ちるくらいに、ひどかったです、今の、久富先生のところの久明くん達もそうだったです、これはもう体中じゃなかったけれども、頭にもうこ~んなカサが出けましてね、あの、後藤さんとこでも同じ、まあ時を同じゅうしてそういうような、その時分におかげを頂いたのでありましたが、まあ一生懸命参りましたな、ね、けれども、医者も、おぉ要らず、薬も付けず、おかげを頂いて、え~久富先生のとこなんかはもう、いよいよいけんと言うので、えぇあの、もうお医者にかかる、ほんの寸前のところで、お気付を頂いて、これはもう一つお縋りせにゃいかんというところから、お縋りをしまして、もうそれこそ、そういう所を境にず~っと、おかげ頂きましたがね、まあ、何と言いますかね、国武さん所の、なんか、丁度あちらが、小学校の一年生になられる方でした、もう、おぉ、吉城から草野の小学校へ行きます、それでお母さんは椛目にお参りをしてきます、そして、学校へ送っといて椛目に参ってきます、して椛目で、一生懸命御祈念をしといてもう帰る頃になると、また、椛目から、その小学校に迎えに行くという毎日毎日でした、ところがですね、その当時吉城の人達が、「もう国しゃん、あんたげん息子が椛目の金光さんでようなるんなら、もう吉城の者はもう、吉城集者が参るばの」と言われるくらいにひどかったです、「もう参ったっちゃ同じこつばの」と言う訳なんです、「これが金光さんでようなるごたるなら、もうそれこそ吉城集の者が参るばの」っち言うくらいでした。あの時分のことを知っておられます通りですよね。それでもまあ一生懸命ね、参って、おりましたがね。
ある日、椛目からまた、学校へ迎えに行きましたところが、子供達がこうやってその、お~、とおりっ、たくさん取り巻いてですね、そこの、おぉ、息子を、に、いわゆる「カサハチ」って言うてから、その泥を投げたり石を投げたり皆でしよるわけです、もう側に寄りつかんって、皆が、それをもね、お母さんがもう、その、迎えに行ってから見たもんですけんもう、子供達ばもうっこう押しのげちからですね、そして、真ん中で子供がその、いじめられとるとば、こう抱き、上からこう、あの、隠すようにしてね、親子で泣いた、と言うような、ひどい事があったんです。ね。
そしたらその時にね、そん、そん時泣きながら、あの、帰って、あの~、椛目の方へまいりましてから、お届けをした事がありますがね、え~、そしたら神様からね、ん、丁度ね、えぇ、立て札を立ててある、ね、あの、お宮さんなんかに参りますと、立て札が立っとりましょうが、ね、あれにね、かっ、「椛目の金光様にお参りをすりゃあこういうようなのでもおかげを頂くぞ」という、宣伝というか、広告をしてあるようなもんだと、だから今一生懸命金光様の宣伝しよると思うて、今そげな修行さして頂きよると思うてお礼を申し上げよ、と、十人の者が知るより百人の者が知ったがええ、百人の者が知ったより千人の者が知った方が、「とてもあげんとが、金光様でようなるはずがなかじゃないか」と言う人が一人でも多い方がいい、子供達でもたくさん、ああいう子供ん時にゃあカサハチをあげんしてこなしたというような事をですね、たくさんの者が知ったがいいっち、だから、いわゆる神様の宣伝をさして頂いておるようなものだから有り難いぞ」ということじゃった、うん。
それがね、だんだんもうそれこそ私が、え~、大小便におとり払い、上からの、色々出ますとはもちろんですけども、だから出る物一切、つばを吐いても、大小便の時でもです、お取り払いを頂いて有り難いと言うてお礼を申し上げよと言うておりましたが、もう大小便の中から血膿のような物がどんどん出ました、ええ、そしてね、もうそれこそ、もう、だいたい色の白い女の子のように、その、美しい子でした皮膚だけは、器量はそげんたいした事なかったばってん(笑)、それがね、もう本当にもうそれこそ、こそごそするほどおかげ頂きました、これはあの、久富、今の久明くんでも、大作くんでも同じ事でした、そしてその事を昨日私原さんとお話をするんですよね、「本当にもう、ここん中にあげな悪血悪毒といったような物がね、体内の中にあった物を、カサが出けたからと言うて、上から膏薬張るごたる、薬付けるごたる事して、ちょっとおさえに、なること、良くなるかも知れんけれども、ね、けれどもそれが何時どういう形を持って出て来るやら分からん物をね、近代医学っちゃそんくらいなこつしか出けんとばの」と私が言う、神様はねもう芯から根から、私はあのその、え~、北野に参りました時に、まぁだ、もう17・8になりました、国武(?)しゃんとこの息子は何とか言いよりましたねあれは、あちらの人は知っちゃなかってですかね、何とかさんっち言いよった、若先生からの小学校の友達ですもん、それがですね、会いましたがもうそれこそ、その後にあの、もう、小ガサ一つ出来ません、うん、もうそれこそ、お~、奇麗なですね、皮膚、今の久明くんどんがそうでしょうが、もう今ずっとここに、学生会で参って来ましょうが、今高校一年ですかね、これも大作くんでも同じ事、ですからねそん時に例えば親が子供の事を願わん親はありません、まあ子供の幸せを願いますが、願うとね、願うと、こういう、悪血悪毒があっては、この子の一生の上におかげにならんから、もう神様が早速お取り払いにかかって下さるわけなんです、ね、「こげなんカサが出けた恥ずかしか、こげなん出けた、カサが出けて、じゅつなかろう、苦しかろう」というだけじゃ、だから相すまん事が分かるですね、いわゆる二十年なら二十年たってみてよか青年になってみて、ね、振り返ってみて、ね、五つ六つの時に、ああいう例えば難渋なカサが出けたが、ね、そん時にお取り払い頂いておった証拠にその後においてはそれこそ汗こ一つ出けん、小ガサ一つ出けん、今の毎日、通って来よります久明くんば見ると分かるでしょうが、色が白うして美しゅうして、それこそ女の皮膚のごと美しか、ね、これは例えばね、昨日その原さんと話した事なんですけれども、たったその、そんなことだけでもそのような働きがあるとですよ、「信心しよれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い」ということ、そういう事なんです、ね。
ですからね、私共が信心しよってから、例えばどのような事があっても、信心をしよって起きてくる事ならですね、もう言うなら今こそ悪血悪毒のお取り払いを頂きよる時と思うて間違いないです、これは例えば経済の面の事もある、人間関係の事もある、ね、神様にお願いをいたしますとですたい、ね、まずそのような働きがあります、お互いが芯から幸せになる為に、本当の幸福を頂きたい、そん為にはです、なら家の中にそういう悪血悪毒があってはいけませんでしょうが、何時までたったっちゃ痛か痒か言うとかんならんです、ね。
信心しよれば、ね、「信心をすれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い」と、もう多いどころじゃない、しかもその目に見えるおかげと、目に見えぬおかげというのは、なっ、なかなか気ずかないけれども、段々信心さして頂きよるとです、ね、そこ辺が段々分かってまいります、ね。
これはもう、お~、全てのおかげに通じる事です、ね、金銭のおかげだって同じですよ、ね、ですからお願いをしよるから、金銭のお繰り合わせを頂くのが、本当だけれども、かえってお願いをさして頂きながら、行き詰まっていく事があります、どんどん貸し倒れが出けていくような事があります、ね、そういう時に、おかげを頂きよらん、信心しよるけれどもこんな事がある、というようなことは勿体無くて、実を言うたら言えない事になります、ね、そういうお取り払いを頂いておる、ね、頂いておるのであるから、お取り払いを頂いて有り難しという、お礼を申さしてもらう以外にゃぁないとですよ、だからね、そういう信心が出けてくる時にです、「目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多い」とおっしゃる、目に見えぬおかげに対してお礼が厚く言えるのですから、おかげを頂くはずです、お徳を頂くはずです、それを私共はですね、信心さして頂きよっとに、言わば、「貸し倒れが出けた」とか、ね、「引っ掛けられた」とか言うでしょう、もう神様が、神様が引っ掛けござるとです、ね、それは本当のおかげを頂かして下さる事の為にそうなのです、それこそ後からね、十年たち二十年たちしてみてです、それこそこそごそするごたる、小ガサ一つ出来んごたる、言わば、あ、体に、体の仕組みが変わってしまうぐらいに悪血悪毒のお取り払いを頂いたようにです、それをですね、例えば無理をしてからでも、ね、自分の思うとる通りにせにゃいけんといったような生き方が、どのようにつまらんことかということが分かりますね。
これはちょっと、どういう風な、心の中に、耳の、耳に入ってくるか分かりませんけれども、今朝から私お知らせ頂きましたのにですね、う~ん、「親切の押し売り」ということを申しますよね、「あぁ非常に親切深い」と言うように、もう親切の押し売りをする人があります、それをもう「親切の押し売り」ではなくてね、親切の、親切の押し売りではなくて、「親切の遠売り」ということ、遠いところ、向こ~ん方におるとをですね、呼びかけよるわけ、ね、親切を遠売りしよる、ある、う~、これは、あぁ、義理のある、う、中の親子の方です、熱心に信心をいたします、ですからどうしてもその義理ががありますから、あ~、普通ではいけんわけですね、お母さんもとりわけ、その、お~、まあ、子供の事の上にですね、本当にあり、本当のお母さんなら黙っとったっちゃいいけれども、まあそこに義理があるから言わんで良い事まで言うたり、してやらんでよかこつまでしてやったりして、まあ言うなら、親切をするわけです、まあこれなんかは、だから考えてみると、親切の、まあ押し売りかも知れませんけれども、それが私今日御心眼頂きますと、一町ぐらい向こ~うの方に息子ガ立っとるとです、それをお母さんが一町ぐらい手前からですね、本当に子供が求めておる物を持って来てやってるわけです、そして「何何さ~ん」っち一生懸命(うらびよる?)、すと向こん方から、やっと聞こえるような声でですね、「今ちょいと手の外されんしよるけんで、お母さんがこっちさん持って来てくれんの」っちうて言いよるわけ、そしたらそのお母さんが腹かいて、「わざわざここまで持って来てやっとるのに、取りもこんな」っち言うてから、お母さんがぶんぶん腹かきよっとこを頂いた、ね、親切の遠売りです、本当にです、私は本当に、その子供にそれをやりたいならね、またしかも、子供はその、手の外されん事しよるんなら、その足元まで行って、私は渡してやるのが、本当の事だと思いますね、子供の心を分からん、子供の足の所まで行ってやらずにです、そして自分は一家族の親切をしておるようであり、親、親としての勤めをしておるつもりでおるです、ね、そして子供がせっかく自分の事をしてやっておるけれども、親の親切を受けないと言うて、お母さんが腹かいた、そして親子の中に嫌な、雰囲気を作ってしまう、信心さして頂くなら、こういうような場合ですね、本当考えなきゃいけない、例えばならこれは私と皆さんの場合でも同じ事が言える、本っ当にこげん有り難か、信心、こげん有り難か神様、こんなに有り難い御理解と、私自身がいかに有り難いと思うてもです、ね、言うならば、いかに私が(たこ?)を叩いてです、「こげん有り難かじゃんの、ここばこうすりゃあこげなおかげが受けられるよ」と、言うても、向こうの方にしか聞こえとらんとするならです、これは私は、親切の、言うなら、遠売りをしよるんだから、その人のところへ私が下がっていって、言うなら、その人の信心のところまで下がっていって、お導きしていくより意外にないなと、まあその事この事を通して考えたんですけどね、うん。
そのような事の中にもですね、私はまだここに、的確に、ここに頂いておりませんけれども、今日、今日の五十三節の、なら、そういうような事をどこのへんにどう頂いたらよいかということを、おぉ、まぁ、思いますけども、まあ頂いた事だからまあ申し上げております。ね。
お互いが、一つ本当の信者、ね、真の信者を、目指さなければいけませんよね。
「まあ本当なもんじゃなかったっちゃおかげさえ頂けやよか」っちいうごたるこっちゃ出けん、本当の信心をさしてもらうところに、本当のおかげが頂けれる、ね、そこにいわゆる本当の幸せがあるのですから、やはり嘘なものじゃいかんでしょうが、ね、ほんとうとは真実とここに書いておられますね、真実の、私は、人になる、真実のおかげを頂く、真実の為には信者にならなければならん、本当の信者にならなければならん、だからそれを真の信者だとこう言うわけ、ね、真の信者にならお引き立て頂かなきゃなりません、そこで「真の信者にお引き立てを下さい」「真の信者にならして下さい」だけじゃいかんから、「今日もどうぞあなたの心にかなう本当の生き方をさして下さい」という願いが、切実になさらなければいけません。
昨日そこの、ん、みせっ、指出の久保山さんがお届けしておられますのに、「もう先生本当に毎朝こうやっておかげを頂いてね、御理解を頂かせて頂いてから、お百姓さんですから、お百姓の仕事をさして頂きますとですね、もう本当に「親先生」「親神様」と言うてお縋りしながら、一日の御用をさしてもらいますとね、もうはかいこつはかいこつ、不思議でたまりません」と言われる、仕事が、うん、これはね久保山さんだけしか分からない有り難いところ、神様だけしかご承知でない世界です、ね、教祖様が、「さあ神が手を貸すぞ」「神が手を外すぞ」とおっしゃると、あのから臼が、ね、から臼が、軽~く回る、「さあ神が手を外すぞ」とおっしゃると、途端に重くなるというようなところがございますよね、御伝記を読ませて頂きますと、もうとにかく朝から有り難うして有り難うして応えん、神様が一緒にござる、とにかくちょっと目をつぶるともう、親先生御結界奉仕して、姿がもう目の前にありありと感じられる、有り難うございます有り難うございますで、御用さしてもらう、神様が手をかけ通しかけて下さるから、なるほど、仕事もはかいこうというものです、ね、神様のおかげというのはそれなんだ、そういうね、おかげを頂かせて頂く為に、一つ本当の信心をさしてもらう為に、本当にです、私道の教えを、を、行事ていくところの、信者にならなければいけない、ね、そして今日私が申しますようにです、信心さして頂きよって右と願って左になる、カサのお届けをさしてもらったら返ってこうやってふえてきたと、決して驚くこともなきゃ困ることもいらん、それこそ、いよいよ体の悪血悪毒のお取り払いを頂きよる時だと思うて、お礼を申し上げていけばよいのに、お礼は申し上げずに、どうしてでしょうかなんていうのは、間違いだというのが分かる、ね、これは体の事だけではない、全ての事の上においてです、ね、お取り次ぎを頂いて起きてくる事みな良いという思い込みを持ってです、有り難うございますと、困った事であるなば、ね、修行さして頂いて有り難いというてもよかろう、お取り払いを頂いて有り難しというてもよかろう、「やれ痛や今みかげを」、今こそみかげを頂いておる時として、お礼を申し上げていくならばです、目には見えないおかげですけれども、もうそこでその場でお礼が言えておる事になる、全てにお礼が言える事になる、全ての事にお礼が言えれる私は人こそ、本当の信者だと思う、ね、そこに困った事はその人の上にはもう無いわけになる、みんなが有り難い、お願いをしておるからこうなんだという事になる、だから金光様の御信心はね、そこを信ずる以外にゃないのですよ、お取り次ぎの働きというのはそういう、言わば、微妙な働きがあるのですよ、ね、それこそ、お~、もう芯から根からのお取り払い、それを、例えばね今、ここに通って来よるとで言うならば、久明くんを見たら一番よか、もうそれこそ誰よりも美しいです、子供ん時にいっぱしお取り払いを頂いてるからですよ、ね、あん時にお母さんが、あ、お家からずっと参って来よりました、途中でね、「こげなん良か薬がある」「はぁ~気の毒な、こりゃあどこに行かんの、どこの薬に行くなら一遍で良うなるばの」っちいうような、その、言うておせりくだす人があった、そこでもうそこにもう行くばっかりじゃん、それを久富先生がね、「さあここが一しっ、一辛抱、一がんばりするところぞ」と言うて、おかげを頂かれたら、もうそういう一つのお試しの、と言ったようかね、そこんところを通る行きよる、の、おさいっ、最後にですね、どんどんどんどんおかげ頂きだしました、だからあん時どうでしょうか、ね、その、まぁだこうしとるとば、注射を打ったり薬つけたりしておさえとったら、その悪血悪毒ばあの中に押し込んだごとなる、そげなん事じゃおかげにならんでしょうが皆さん、信心さして頂くならね、芯からね、言うなら根からの、本当のおかげになっていかにゃん、本当のおかげになっていかにゃん、為には一つ本当の信者にならにゃいかん、本当の事がわっ、分からしてもろうて、本当な事をです、の、言わば信心が、成されていかなければなりません。
今日は、え~「信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い」ということをですね、あの五体の事から、聞いて頂いたんです、他の事みんな理屈は同じ事、同時に中に、まっ、あ~、今日はあんこ入りのようなお話をいたしましたけどもね、その事にもやはり関連があることだと思うんです、私共がね親切の、お~、押し売りじゃなくて、遠売りをしよるような事がありゃせんだろうか、ね、親切の遠売りじゃ、こっちが腹ん立つだけ、私がなら皆さん前でも、歯がいい思いをしただけじゃつまらん、こちらがそこへ、さっ、ね、下がって行って、お導きをさしてもらう、下がって行って教えてあげる、それが本当の親切だということに、なりましょうね。
どうぞおかげを頂きますよう。